あらゆるものには二項対立を孕んでいる。それは一つの言葉が成り立つためにはそれとは相反する言葉がないといけないからだ。そしてそれは最終的に生と死のような極端なものに辿り着くだろう。つまりあなたが生きる理由を欲するとき、あなたが死にたい理由をも欲している。しかしあなたはその欲望を、おそらく同時には知覚できない。
 私はあらゆる芸術が作り上げてきた歴史に懐疑的だ。美術史として紡がれてきたものの大体が、ある理想を謳うためだけのものに感じられるからだ。それらは魅惑的な言葉で、私たちにその正当性を説く。中でも、抽象表現主義がその理想として掲げたのは、新たな絵画言語の創出によって人間の感情そのものを表現することであった。しかし、その現前し得ないものは、私たちの前に絵画というオブジェクトとして現前している。芸術家は意味のないものに意味を付与させ、新たな価値を創り出す。当然そんな行為はフィクションである。私は芸術家だ。だから私は全力で嘘をつく。あなたがそれを嘘と思えないまで。
 芸術を私が信じることができるなら、それはフィクションではない。しかし、複製技術が発達した現代では芸術においてオリジナルかフィクションかといった二項対立の存在は曖昧になっている。しかし、芸術作品が私にとってある必然性を伴って現れるとき、それをリアルなものだと信じる。しかし同時に、私は人間の欲望によって生まれた複製メディアに対して懐疑的なのだ。それらは、絵画を複製するために生まれた版画から始まり、印刷技術、写真や映像、インターネット、そして空間を複製するメディアであるVR(virtual reality)が挙げられる。VRは現実の対となる仮想空間である。それは私たちがこの現実空間に存在しているからこそ生み出される二項対立である。しかし、それはフィクションである。なぜなら、その空間はスクリーンの中の3Dオブジェクトでしかないからだ。つまり、我々は没入する要素としての空間を想像してしまったのだ。
その融解した二項対立が現前することを、私たちにフィクションへの没入、「想像」という手段で可能にしてしまうことをVA(virtual abstraction)と呼ぼう。その仮に想定された抽象は、今、あなたがここにいる現実/仮想を融解する。そうしてあなたは仮想と現実の空間どちらにも参与してしまう。マーク・ロスコは自身の作品について「絵画ではなく場を作った。」と表現した。抽象性とは、ある二項対立へ参与することに対する想像そのものである。そしてそれはあなたを二重にすることを可能にしてしまうのだ。
 そうしたあらゆる二項対立を麻薬のように刷り込ませて私たちは生きている。けれどあなたがそのフィクションに気づき、その融解をあらゆる場所で知覚する時、VA(virtual abstraction)は現れる。そうなることを私はここで表明する。その世界を想像する。想像するのだ。

そうしてそれもまた、フィクションだ。
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